こんにちは、ロスジェネ勤務医(@losgenedoctor)です。
ちょっと前Twitterでこんな話題が。
和彫りって日本の伝統であり、
— 【看護師トレーニーDaichi】 (@Daichit16) June 23, 2022
芸術だと思います。歴史も深いです。
刺青が見えないように配慮しろとか、
なぜ刺青がある人ばかりが配慮しなければならないのでしょうか。
同じ人間で同じ公共の場を使用するなら、
刺青のある無し関係なく、
お互い認め合って、
違う部分で配慮しあうべきでは? pic.twitter.com/6te6ciHdSC
誰でも想像つくと思いますが、Twitter上でも非難の声の方が多くて、いわゆる炎上したわけですが、確かに僕も入れ墨を堂々と「お前らが理解しろ」を主張するのはおかしいと思いました。
しかしなぜそんなにこれを駄目だと思うのだろう?と考えていて思い出したのは、麻酔科医にとっておなじみのあの宗教でした。輸血を拒否するという教義のあの宗教です。
この看護師さんが入れ墨をするのは自由ですし、輸血拒否という信念を持っているあの宗教の人達も自由です。
輸血拒否の人の命を救うために輸血して、その後訴えられた裁判でも医療的判断より信仰の自由が優先される、となっていて、決着はついています。
なぜこの2つが似ていると思ってしまうのかというと、「形を持った信念ってなぜか優先されるよな」というところなんですよね。
まぁ入れ墨の方は社会で優先されているわけではなくて、この人の中で優先されるべきとなっているだけなんですが。
「輸血拒否」という信念は、医療者の「目の前で人が(助かる道具があるのに)死んでしまうのを見たくない」という信念と相反します。
そりゃそうですよね、医療者って大抵は人を助けたくて医療者になっているし、死にそうな人をどうやったら助けられるかが教科書に書いてあってそれをずっと勉強して来たわけですから、こうすれば助かるのにそれを敢えてやらない、ということにすごくストレスを感じる人が多いと思います。
目の前で人が死ぬのも手をこまねいて見ていたくない、というのは明確な信念なんですよ。
中には精神的に病んでしまう人もいるかもしれません。というか、麻酔科医だったら「この手術で、出血したらこの人助けられないんだ。出血しないでくれ...」と心のなかでずっと思っていて、それもすごいストレスです。
あの宗教はちゃんと同意書を求めてくるので、こちらとしては拒否もできるのでその意味では問題はないのですが。
しかし、そういうストレスを感じたくない、という信念はわざわざ宗教という形をとりません。「医療者教」という宗教はないのです。
なので、この2つの信念がぶつかったとき、○○教という明確な形をとっている宗教の側の方の信仰の自由が優先されるわけです。
入れ墨看護師さんも、明確な信念がありそうです。
しかし、周りの多くの人の「入れ墨をした人が怖いから、見たくない」という信念は、入れ墨のように目に見える形で明確に示されません。
入れ墨看護師さんにすると、それは「何となく怖がっているだけ」にしかみえないのでしょう。だからよく理解しあって、認め合おう、みたいな発想になるのです。
そうじゃなくて、みんな形にしていないだけで、明確に拒否したい信念があるんですよね。
こういう、はじめからお互いを拒否せず、理解し合って、違いを認め合おうみたいなダイバーシティ的な考え方って、ちょっと勘違いするとこういう変な話になってしまって、ともするとこっちまで「入れ墨を嫌がる自分が変なのかな?」とすら思ってしまったりします。
自分が自分の考えをしっかり受け入れていなければ、それこそ全くダイバーシティではないですよね。