ロスジェネ勤務医の資産形成ブログ

ロスジェネ世代麻酔科医師のコッカーマリンです。資産形成や日々のことについて感じたことを書き綴ります。

コロナが与えた「孤独問題」への長期的な影響

こんにちは、ロスジェネ勤務医(@losgenedoctor)です。

 

前回のエントリー

www.cokermarin.com

からの続きです。

 

リアルで僕の周りにいるような人や、Twitter上でしか知らないけどツイートを読んだり読まれたりしている人、おそらく大体僕より若いか同世代で、まだ将来自分が陥るかもしれない孤独問題についてなんてそんなに考えていないと思います。

僕だってそこまでリアルに考えられているか?というとそんなこともない。

 

でも相当努力しないと、確実に孤独はやってきます

世の中の方は僕が孤独になっているかどうかなんて興味なくて、食べられないから食べ物をくれ!と叫ぶのならセーフティネットが働いて助けてくれるかもしれないけど、孤独だから助けてくれ!と叫んだって多分助けてもらえません。

そう考えると脱出不可能な地獄です。

 

しかも、年をとってから一念発起して孤独から抜け出そうと思ったって、多分難しい。自分が何事にもやる気がなくなっててそもそも一念発起できない、というのもあるだろうし、孤独問題の解決には相手の心からの気持ちというものが必要なので、相手が僕の孤独に付き合ってくれようと自発的に思ってもらわないと解決しないわけで、それって多分すごく難しいですよね。

孤独に陥ったような老人の話を、腰を据えて聞いて付き合ってくれる人がどれだけいるのか。

食べ物をあげたらそれで解決、というわけじゃないところが難しいのです。

 

人生で何かを成し遂げ、話す内容に含蓄と説得力のある、性格も穏やかな老人なら、みんな寄ってきてくれるかもしれない。

でもそんな人間になるのはとても難しい。東大に入るより多分偏差値高いことですよね。

ほとんどの人がそんな状態で老後に突入してしまうとすれば、本当に恐ろしいことです。

なので特に女性は孤独に陥らないよう、自分なりの人脈のインフラをせっせと作ったりします。

 

しかし、今回のコロナで、日本中でそのインフラが相当毀損してしまったのではないだろうか?と感じています。

親や、親の友人、患者さんの話など、ある程度以上高齢の人から聞くと、みなコロナの間、人と会うのを我々世代以上に避けていて、疎遠になってしまった人がたくさんいるそうです。

もっと聞くと、やや会うのが億劫な人との関係を切るのにむしろ良かった、なんていう声もありますが、それでもやはり人が人と会う機会を何年も奪われた影響というのは、きっと今思われているより大きいものなんじゃないかと思うんですよね。

 

一度切れてしまった関係を、実際にまた会って再構築するというのは簡単なことではありません。ただでさえ高齢になると、面倒くさいことから逃げようとしてしまいます。

なかば強制的な形であれ人と会う、というのは結局自分を孤独から救い、見えない形で力になっていたはずです。

それが失われてしまった。

 

こういう可視化できない問題というのは、可視化されやすいコロナの感染者数みたいなこととくらべてとても矮小化して評価されてしまいます。

例えば、コロナで婚姻数、出会いの数が減って、赤ちゃんの出生数が何十万人も減った、みたいな話はありますが、それだって赤ちゃんが何十万人も死んだ、というニュースを想像してみれば、実質的には同じことなのに、それよりは矮小化して見られてしまっていると思います。

目の前にいた赤ちゃんが死ぬ、というのは可視化されますが、まだいない赤ちゃんが生まれなかった、というのは頭では分かっても目には見えないからです。

 

孤独問題は、

①まだ起きていない ②「孤独」は目に見えない

という意味で、相当見過ごされることであろうことは想像に固くありません。

しかし、コロナでたくさんの人が苦しむのと同様に、というよりそれよりもっと大きな問題を多くの人に与えるのではないかと危惧しています。

 

いくら政府が感冒症状がないならマスクはもういい、大勢じゃなければ人と会っていいですよ、と言ったって、日本社会の隅々まで「コロナ仕草」がこれだけこびりついてしまうと影響を減らしていくのは簡単ではない。

これから何十年かの間の日本全体の「孤独の量」、それが凄まじい勢いで増えていってしまうのではないか。セルフネグレクト、孤独死、そういったものが加速度的に増えてしまう。

そういうコロナによる評価しにくい影響が、これからも社会全体を蝕んでいく予感がしてなりません。

 

コロナによって失われたもの、人との関係だけではなく、旅行や趣味、高齢者にとっては若者にとってのそれとは全くレベルで重要だったりします。

本当にそれが単一の生き甲斐だったりする。

それが奪われただけで、容易に「死んだほうがマシ」状態になってしまったりします。

 

コロナの自粛によって、一般的に言われているのは高齢者の命を守るために若者の未来が奪われた、的な文脈ですが、実は高齢者側も十分に人生を奪われています。

 

結局の所、ある一定のリスクから逃げ回るために、もっと多くのリスクを全世代が引き受けてしまったことになるのではないか

それはとどのつまり、「可視化できるリスク」と、「可視化しにくいリスク」の対立に過ぎなかったのではないか?

そういう気がしてなりません。