ロスジェネ勤務医の資産形成ブログ

ロスジェネ世代麻酔科医師のコッカーマリンです。資産形成や日々のことについて感じたことを書き綴ります。

ワクチンを忌避し、政府の言うとおりにマスクを着けずに普通に日常を送りたい人の心理とは

こんにちは、ロスジェネ勤務医(@losgenedoctor)です。

 

相変わらずネット上では、マスクをするべきか、ワクチンを打つべきか、イベントを開催するべきかどうかみたいな議論が活発です。

これに関してはみんなそれぞれの意見があって、時によっては意見同士が対立することがありますが、僕としては、なぜこんなに人によって、こういうことに関して意見が違ってくるのかが不思議になってきました。

 

先日、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の「ホモデウス」を読んでいて、なるほどなぁと思わされることがありました。

この本によると、人間は、何を宇宙の真理として正しいと思い、人間としての正しい倫理の規範となる真理、みたいなものを何かに頼らざるを得ないものだそうです。

 

近世以前はその「何が正しいのか」の規範を、宗教の経典にどう書かれているかで判断していた、というんですね。

悪いことをしてしまったら、教会に行って司祭に罪を告白し、懺悔し、許しを得る、という具合です。

 

とにかく神はすべてを知っていて、その言葉を伝える聖書や司祭に聞きさえすれば、自分がいつもそれを実践出来なかったとしても、原理的には解決するはずである、と思っていれば、たしかに生きやすいかもしれません。

 

それが、テクノロジーの進歩によって、神の言葉が人間の世界に十分な説明を与えてくれなくなり、しだいに人間は別の真理の教科書を求めるようになります。

今では「神は死ん」で、自分の中の「感情」と「経験」というものがとても重要だとされています。

それが「ヒューマニズム」です。

 

「ヒューマニズム」は、善や真理の根拠を、理性的な人間の中に見出そうとする考え方で、実はこれは現代に生きるほぼすべての人間が信じている宗教みたいなものなのです。

人間の心の中、自分の中にこそ、善悪を決める根拠、宇宙の真理があるんだ、という考え方です。

人間を何かによって縛らず、自由に考えられるようにしさえすれば、おのずと正しい宇宙の真理にたどり着けるはずだ、ということです。

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民主主義、自由主義の考え方はまさにこれですよね。

みんなに投票権を平等に与えて自由に選択させれば、きっといい結論がでるであろう、という考え方が根底にあります。

 

なぜヒューマニズムが人類が共有するものになったかというと、「神も死ん」で、世界がグローバルになった今、世界中の人間が協力するための共通の教えとして、みんなが人間であることを利用するしかなかった、ということなのではないかと言われています。

 

我々は子供のときから、この「ヒューマニズム」を徹底的に教え込まれます。

他の人にも自分と同じだけの権利があって、互いに尊重されなければならない、人間は道徳的に正しいことをして争わず協力し、各々は努力しなければならないと教えられて「倫理的」に育ちます。

これは世界共通の「正しい考え方」で、あのロシアのプーチンでさえ、"ウクライナ人は劣等民族だから根絶やしにして良い"とは言いません。

"人々を悪いナチズムから開放する"、とかそういう言い方をするわけです。

 

ヒューマニズムの考え方を、我々は当然正しいこととして感じてしまいますが、よく考えてみるとそれすら実は一つの「教え」に過ぎないんですよね。

 

現代では、悩みごとがあってカウンセラーのところに行くと、カウンセラーはできるだけ私達に自由に話をさせて、話を聞き出し、「それで、あなたはどう思いますか?」というように言います。

つまり、カウンセラーが○○すればいい、と答えを押し付けてくる/決めてくれるわけではなくて、答えは当事者本人の心に中にあるはずである、という考え方なんですよね。

このテクニックというか、考え方は医者が患者と話すときにも重要である、と教えられます。

 

それが中世だったら、教会になにか悩むことがあって相談しに行っても、司祭が経典を引っ張り出してきて、「○○しなさいと聖書に書いてあるからこうしなさい」というだけです。

つまり、人間の中には真理なんてなくて、善悪の判断なんてできない、権威のある何か/誰かしか分からないのだ、と思われていたということです。

そしてみんながそう思っていた。

 

今ではみんながヒューマニズムの教えを信仰しているので、"理性的である"自分の中の自由な感情に一番従うように、インプットされています

それがもうすっかり刷り込まれていて、いまやいくらデータがこうだからこうだ、と「偉い」人たちが述べても、始めのうちはすこし従ったとしても、長期的にはみな従わなくなる。

自分の中の「自由な感情」を優先した行動しかできなくなるわけです。

 

コロナに関していうと、本当に初期のころは皆専門家のいうことに従い、欧米の人たちですらあの強烈な「ロックダウン」に従っていたわけですが、しだいに自分の周りの様子をみたり、社会の実際の対応をみているうちに、○○すべきであると「専門家」達が決めつけてくることと、自分が○○すべきなんじゃないか?と思うことの間にギャップが生じてきます。

 

それが長引いてくると、「自由主義」に馴染んでいる現代の人間にとっては、自分が例えば「マスクなんてしなくていいんじゃないか」「コロナなんて、周りでなった人いたけど大したことないから怖くないんじゃないか」と感じれば、その気持ちの方に従うようになるのです。

いくら専門家が死亡率は○○%で、怖い病気なんだ、と主張しても、実際に自分が体験する経験と合わなければ、結局は自分の経験の方を優先するようになる。

 

欧米では「自由主義」の考えがより浸透していて、専門家達が言うマスクをしろ、という啓蒙により従わない人が多く、アジア、特に日本では、その傾向が少なくて、素直に専門家達の意見に従う人が多い、という違いはあるでしょう。

 

しかし日本でも、上から目線に感じられる「マスクをしなさい」「ワクチンを打ちなさい」という声に反発を感じる人は一定数いて、それがずっとネット上で喧嘩みたいなレベルの議論がなくならない本質なんじゃないかと思います。

 

人類の生存のために、また個々の個体にとっての生存の確率を上げるために、マスクをするなりワクチンを打つなり、というのが果たして正しいのかどうか?という話ではなくて、むしろ生存することより、自分の自由意志が保たれることのほうが重要である、と思ったより多くの人が考えている、ということなのだと思います。

 

死んでしまったら自由意志も何もなくなるわけで、一生懸命ワクチンを打て、マスクをしろ、と啓蒙活動をしている人達にすると全く理解できないと思います。

しかし、現代の人間というのは、自分で意識するしないに関わらず、生存確率を0.1%上げるより、自由意志を尊重してもらうことの方に重きを置いているのではないか、と考えてみるべきでしょう。