ロスジェネ勤務医の資産形成ブログ

ロスジェネ世代麻酔科医師のコッカーマリンです。資産形成や日々のことについて感じたことを書き綴ります。

「ESG(投資)」について、基本的に知っておかなければならない一つの考え方

こんにちは、ロスジェネ勤務医(@losgenedoctor)です。

 

 このブログを読んでくださっている方の中にも、ESGとかESG投資、という言葉を聞いたことがある人はいると思います。

これに関して一つ、知っておかなければならない、大事なことがあります。

 

僕も聞いたことはある、程度には理解していないんですが、よくニュースに出てくるキーワードでいうとおそらくこんな感じですよね↓

E(環境):二酸化炭素削減、再生可能エネルギー

S(社会):働き方改革、男女平等、LGBT

G(ガバナンス):企業統治

すごく今っぽい言葉ばかり。

技術の進歩で地球に優しく、人間がお互いを大事にして、正しいルールで行動し、持続可能な未来を作っていきましょう、みたいな話ですね。

今や世界のセレブが発言する時には、こういう考え方にあったことを言わないと大変なことになります。人種差別発言なんてしようもんなら、一発アウト。

企業も、世界でモノを売ろうとうするならホームページに「環境に配慮しています」という項目が独立してないと駄目な感じですよね。

 

というか今大きく世界で話題になることって、これらのキーワードにどこか関係する話多いですよね。SNSでの意見も、それに順張りか逆張りか、という風に分類できそうな気もします。

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これ、いつも勘違いしそうになってしまって、まぁ今日のこれが言いたいことなんですけど、このESGという考え方、人類が進化して、どんどん環境対策や社会の仕組みを良くするために頑張りましょう、ってこととは本当はちょっと違うんですよね。

 

なんにも考えていないと、ナイーブに「技術が進んで環境に優しい電気自動車の世界がやってくるんだ!」とか思ったりしちゃうわけなんです。

逆にすこし天の邪鬼な人は「生産コストから考えたら、電気自動車の方が二酸化炭素排出するから駄目なんだ!」とか訴えることもあります。

 

もちろん、環境問題というのは大事だし、本当に環境に良い技術を作り出そうと研究者になったりするのは素晴らしいことなんですが、身も蓋もないことを言ってしまうとこれらって、両方正しいともいえるし、どっちも間違っているともいえて、本質的にはどっちでもいい。

 

実は例えば電気自動車でいうと、自動車会社は脱炭素という旗を掲げることで単に需要を作り出しているだけなんです。

ガソリン車ばかり工場でずっと作り続けていると、性能は徐々に良くなるかもしれませんが、肥大化する資本主義経済の中で、その業界で食っている人を養いきれなくなる。車自体を買わない人も増えてきました。

そこで、なんだか新しそうでおしゃれな電気自動車という需要を新しく作り出して、なにやら環境に良さそうだという今っぽいコンセプトとともに売り出す。新しく工場だって作るし、そこでの経済効果も生まれ、車に未来永劫乗らなかったであろう人たちに、ちょっと車買ってみようかなと思わせることもできる。

そういう経済の流れを見ているだけなんですよ。

 

なので実は電気自動車が環境に優しいかどうか、というのはどうでもいい。ソーラーパネルが実は産廃を作っているだけ、という話(あれは相当駄目だとは思いますが)も同じ文脈と言っていい。

 

 

 

「ESG投資」、ということを言う時、どう捉えたらいいかというと、金余りでも使い道がなく、なにかに投資しなければならなくて困っている人たちが、そういう言葉を作り出して誰にも気づかれないバブルを起こそうとしているんだな、となんとなく理解しておかなくてはいけません。

 

ファッションショーで、今年のトレンドを作り、流行色がなぜか決まるというあれも、実は同じことで、無理やり需要をそうやって作り出さないと業界が食っていけないんですよ。無批判に乗っかるのもアレですが、批判する対象でもありません。単に社会のあちこちで、そういう風にして消費者の欲望を揺さぶって需要を作り出さないと、持続できない様になってきているわけですね。

 

 ESGのうち、S(社会)に関しても、よりよい社会を作るために、という意味合いも当然あるんでしょうが、例えば

「LGBTの人たちが隠れてこっそりといなければならない世界」

「LGBTの人たちがしっかりを居場所を確保した世界」

に変えていく大きな変動を起こそうという動機が一番大きいのだと理解しています。

そこで新しい考え方が生まれたり、新しい(精神的な意味でも)ファッションが生まれたりするのです。

もちろん社会にそういう変化がもたらされることは、多くのLGBTの人にとってもいいことだと思いますが、とにかく社会にとって「変化を起こすこと」自体が持続していくために重要なのです。

LGBTの人が好きだ嫌いだ認める認めない、みたいなことは個々人の勝手なのですが、社会がそういう風に変化をしていく、そしてそのなかで否応なしにポリコレが出来上がってしまう、というのは必然であって、こういう話題が出た時にそういうことを思いださないといけないな、といつも思っています。