ロスジェネ勤務医の資産形成ブログ

ロスジェネ世代麻酔科医師のコッカーマリンです。資産形成や日々のことについて感じたことを書き綴ります。

SNSという現代に蔓延したウイルスから淘汰圧を受けないためには

こんにちは、コッカーマリンです。

 

NETFLIXのテラスハウスの出演者の急逝の話が今よく話題に出ています。

headlines.yahoo.co.jp

 

大変痛ましい話だし、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。

まだすごく若い方で、ちょっとした人生の掛け違いでこんなことが起きてしまうことがあるんだ、と改めて思います。

 

そしてひとつ確実に言えるのは、今回の話のきっかけとなった出来事は少なくとも関係のない周りからみたらそれほど大した話ではないように感じられる、ということです。

 

 

SNSは、多くの場合短い言葉で自分の感情を表現しようとするのでついきつい表現になりやすいです。

あと目の前に相手が見えないという物理的な理由からも、相手がどう感じるか、という認識が甘くなる。

どうせ見てないだろう、とかいうのもきっとありますよね。

でも意外と見られてて、有名な人や芸能人でも言葉に傷ついたりすることがある、ということをネットを使う人達の中でもっと常識にしていくべきでしょうね。

僕も気をつけないといけないです。

 

それでもSNSで何かネガティブなことを言われた時の反応って人によって全然違うとは思います。

耐性というんでしょうか。

受容体への結合のしやすさとか、そのあとのリン酸化が起きる条件の閾値とか、なんかそういうのに似てるな、とか思ったりします。

 

やたらと受容体が過敏に反応する、カスケードがやたらと動きやすい人、そういう人はSNSに向いていない。

でも現代は普通に生きているとどうしてもそういうものに巻き込まれてしまう。みんながそういうのをやっているのが当たり前の世界というか。

 

そしてSNSに向いていない人もインターネット空間に普通に存在している、という状況になっています。

で、ちょっとバズって楽しくなっていたらいきなり炎上して鬱になる、とかあちこちで繰り返されている事象だと思いますよね。

 

コロナ脳と言われてしまいそうですが、この話ってウイルスの蔓延とそれに対する耐性という話と似ているな、と思ったんですよね。

コロナは容赦なく個体すべてに襲いかかりますが、感染する人もいれば感染しない人もいて、軽症ですむ人もいれば亡くなる方もおられます。

 

すごく単純は話ですが、そこに何の理由も意義も実はありません。糖尿病や肥満の人間が種の繁栄のために淘汰されたんだ、というわけでは全くない。

ただそこに「新しい淘汰圧」が生まれただけ、それだけの話です。

 

今は人類がみなインターネットを使い、テキストでメッセージをやりとりしたり、知らない人同士でインターネット越しに繋がるのが当たり前ということになっています。

それぞれに功罪があるのはみんなよく分かっていて、やっぱり家族と過ごすのがいいねとか、直接会って話す方がいいねとか、たまにふと思ったりはするんですけど、基本的なみんなの生き方考え方はインターネットありきで進んでいくのはもうしょうがない。

 

それは実は一つの淘汰圧になりえるんだよな、と思ったんですよね。

インターネットというウイルスが蔓延した世界。

ネットでの誹謗中傷に耐えられないタイプのゲノムを持った個体が淘汰されるということなんです。

淘汰という言葉はキツく感じられますし、今回亡くなられた方が「淘汰された」という意味ですか?と言われたら全く本意では無いんですが、僕としてはそのようにこういう事件をつい捉えてしまうんです。

 

「ホモ・サピエンス」という種そのものにとって、インターネットで淘汰される個体が淘汰圧を受けることは、実はさほど重要なことではないわけです。

しかし個体にとって、その死は非常にインパクトのある話でとても受容できることではありません。個体の血族にとってもですかね。

 

なのでそれぞれの個体がやるべきことは、その世代の種が共有している常識・宗教・興味といったものが、自分という個にとって不利益であろうと判断した時は勇気を持ってそこから離れることです。

例えば、

「インターネットで世界に向かって自分の意見をしっかりと主張するのが今は新しくて正しいんだ、そうすればみんな分かってくれる」

という現代の人類の間でうっすらと共有されている「宗教」を、勇気をもって否定することが自分という個体を守るのに必要な場合があるということですね。

そのためには自分という個の特徴をしっかりと理解することも必要になります。

 

いじめの問題も、貧困の問題も結局こういう話に行き着くんだろうな、と思います。

人類は今後賢くなって、知らず知らずの間に自分たちが囚われている不自由から開放される日が来るんでしょうか。